キリシタン巡礼コース
大村市内のキリシタン史跡を巡るコース
天正遣欧少年使節顕彰之像
大村純忠、大友宗麟、有馬晴信のキリシタン大名らは、ヨーロッパのキリスト教文化を見聞させ、日本をヨーロッパに紹介するため、10代半ばの4人の少年をローマに派遣しました。一行は活版印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献しました。 彼らが長崎港を出帆して400年目を記念し、四少年の偉業をたたえるため、長崎空港へ渡る箕島(みしま)大橋のたもとに顕彰像が建てられました。
妻子別れの石(さいしわかれのいし)
この場所は、江戸時代の大村処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦3年(1657年)の潜伏キリシタン大発覚事件である「郡崩れ」に関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。 大村で処刑されることとなった131人は、大村牢から200人の武士の厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、水盃を交わした場所がここであったといわれています。言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので、別名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。 斬罪所はここから800mあまり北にあり、昔はそこまで細い道が真直ぐに続いていたといわれています。
本経寺
萬歳山 本経寺を紹介したパンフレットです。
獄門所跡
明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、見せしめとして当時人通りの多かった「長崎街道」沿いのこの場所で20日間さらし首にされました。 今は、白亜の無原罪の聖母像が建てられ、遠い昔の殉教者たちの霊をやさしく慰めています。
首塚跡
明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、人通りの多かった長崎街道沿いの獄門所に20日間さらされました。 当時、キリスト教の信者は打ち首にしてもキリシタンの妖術で首と胴がつながって生き返ると考えられていたため、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられています。 胴塚より北方約500m離れた榎の根元に首を埋めたと伝えられており、今は、立派な殉教顕彰碑が建てられています。
胴塚跡
明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、人通りの多かった長崎街道沿いの獄門所に20日間さらされました。 当時、キリスト教の信者は打ち首にしてもキリシタンの妖術で首と胴がつながって生き返ると考えられていたため、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられています。 胴塚は、本来この場所ではなく、国道沿いのやや北側にあったと伝えられています。今は、聖堂の祈りの像が建っています。
放虎原殉教地(斬罪所跡)
明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人もの人々が捕まり、キリシタン弾圧史上、まれにみる大事件となりました。あまりの逮捕者の多さに大村藩だけでは対応できず、周辺の藩にも分散して預けられ、取り調べられました。逮捕者のうち411人が打ち首となり、そのうち131人が放虎原殉教地で処刑されました。 この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなります。処刑が行われた場所は正確には分かりませんが、信者の方々によって、この場所に殉教の顕彰碑が建てられています。
森園公園
森園公園は、約4.8ヘクタールの敷地で、潮風を感じながら空港や沈む夕日を眺められる公園です。 食のイベントや野外ライブなどのイベントなどにも利用されています。 また、園内にある緑のふれあい館はガーデニングや緑に関する内容で利用する施設となっています。