基本情報
説明 | 戦国時代、日本へ南蛮人(ポルトガル人)が渡航し、南蛮貿易が始まりました。南蛮船は、最初、平戸に渡航していましたが、平戸領主松浦氏と不和になったポルトガル人は、新たな港を探し、大村領内の横瀬浦に目をつけました。領主大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、1562年横瀬浦で南蛮貿易が始まりました。
しかし、開港された横瀬浦は、武雄の後藤貴明と反純忠派の家臣に襲われ炎上、わずか1年で役目を終えてしまいます。 ポルトガル人は、新たな港を探し、キリスト教に寛容な大村領で貿易を望み、福田に来航、さらに良港を求め、長崎を探し当てました。 元亀2年(1571年)純忠は、長崎を港として開き、以後、南蛮貿易の拠点となりました。その後、長崎と茂木は純忠によって教会(イエズス会)へ寄進されますが、これには貿易の定着と領内の安全を守るねらいがあったといわれています。 南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心でしたが、貿易だけではなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。 また、伝わった南蛮文化と日本の文化が合わさって南蛮漆器などの工芸品が作られ、海外に輸出されるものもありました。 豊臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉に取り上げられてしまいます。続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。その後、鎖国を迎え、長崎は唯一西洋との窓口として栄えますが、その基礎を築いたのが大村純忠による長崎開港でした。 |
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